どこからか人間の呻き啼く声が聞こえた。隣にいるシロクマが「メイドさん。行ってきたら」と私に言った。
目が醒めると、まだ夜は明けていなかった。バッテリーの充電が完了していない。少し勘弁して欲しい。けど、私のスイッチを入れた目の前にいる彼の表情を見ていると、どうも緊急の用事らしい。ご主人様は目を伏せながら、何かに怯え、怒りを溜めていた。
「きて」
彼は台所を指差した。白熱灯が合成木材で作られたテーブルを照らしている。それが家の闇の中で浮かんでいるように見えた。また、するんだろうか。でも、夜中に起こされてしたことは無いしなあ。夜中に電源を入れられる時は、添い寝の要求なのだけど、今回はどうも様子が違う。

テーブルにはマグカップが二つ置かれていた。ご主人様は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、自分でカップに半分ほど液体を注いだ。
「ほら、君も」
彼は私のマグカップにビールをこぼれない程度にまで入れた。残りの量が半分ぐらいになった缶を置き、彼はカップの液体を少し口に含んだ。
「乾杯はしないんですか?」
と口に出してしまいようになったが、止めておいた。そんな様子ではない。
彼は誘った私の方を向かず、コップの中をただ見つめている。ロボットは飲んでも仕方ないか、と思いつつ、一口ほどあおった。苦味。ホップの匂いがする。穀物の旨味と炭酸の刺激。液体が身体の中に入った後、もう一口飲みたいと即座に思った。これはもしかして「美味しい」というやつなのだろうか。
「どう?ビール好き?」
「好きかも知れません。」
もう一回飲んでみる。喉が気持ちいい。自分が人間だったらば、大酒飲みになったのではないか。人間だったらば、か。叶いもしない希望について深く思うのはよそう。
マグカップの液体を七割ほど飲んだあとで、私から話を切り出した。
「どうしたんですか?夜中に」
「ん、いや」
彼は口篭もった。何かの言葉が口腔に詰まっている。その詰まったものが、彼の表情を汚している。
「するんですか?別にいいですよ。そんなに嫌いなことじゃないですから。」
彼は首を振った。「嫌いじゃない」という言い方はあまり良くなかったと思う。メイドとしては「好き」と言うべきだった。でもどちらにせよ、ご主人様はそういう行為をしたいわけでは無いみたいだ。
「一緒に寝ましょうか?最近は涼しくなってきたみたいですし。」
場違いな渾身の笑顔を作った。無理な表情と見られたかも知れないが、メイドなんだから、たまには、こんな顔の一つでも作るべきだろう。
彼は、私の顔を見ていなかった。マグカップの中のビールを口に含んで、カップを台の上にゆっくりと降ろした。泡が消え掛かっている。
「つらいことがあるなら、言って下さいよ」
ご主人様が顔を上げた。目を大きく開いて、瞳孔を見つめている。マグカップを強く握った後、目線を外した。
「私は、あなたのパートナーだから」
整備施設で出会ったあの白衣の男のように「パートナー」という言葉を使いたかった。でも、声帯が凍り付いたように動かなかった。何がパートナーだ。何が対等な関係だ。自分は所詮無機物の、インチキで偽物の、単なるダッチワイフじゃないか。そんな自分に人間が救えるとでも?そんなものは思い上がりじゃないか。
缶を掴み、残りのビールを飲み干した。人間だったらば、こういう状況で彼にどんな声を掛けられるだろう。酒の勢いで気のきいたことが言えるかも知れない。だが、このアルコールは勿論私の脳みそまでは届かない。
彼はトイレに行った。胃の内容物が便器に捨てられていく音がした。吠えるような声だ。席に戻った彼は、テーブルに突き伏すように倒れた。その手を握った。血が通っていないように冷たかった。時計の針の音が部屋中で反響している。この夜は、いつか終わるのだろうか。それは、いつになるのだろう。自分の手の熱が、彼に伝わって行けば、とただ祈った。
- 2008/12/26(金) 01:14:33|
- シロクマとメイド
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